在宅ワークの現状調査レポート2014年版

労働環境の変化と日本のメーカー

何しろ、この思想に立てば、日本列島は八百万の神がおわす「神国」であると同時に、仏が守護をする「仏国土」であるということになる。

 

近代的な思想に影響されている私たちからすると、この本地垂迩思想はなんとも奇抜な説にも思えるわけだが、しかし、この神仏を融合する日本独自の思想によって、日本人が古代から抱いてきた素朴な自然崇拝が本格的に日本文化の根本に位置するようになった。

 

名もなき草にさえ神性があり、仏性があると信じられるようになった。

 

音は、そのまま人間の成仏を祈るお経であると信じられた。

 

かくして、自然は聖なるものであり、人間はその守護によって生かされているのだという思想が日本社会の中に定着するようになった。

 

したがって、この本地垂迩の理解なくしては、以後の日本文化を理解することは不可能なのである。

 

ところが、最近の日本史の教科書には「本地垂迩説」が出てこない。

 

講演会などでこの話をしても反応してくれるのは筆者と同じ年齢層か、それ以上のお年寄りだけである。

 

日本の学校はなぜこんなに重要な歴史的事実を教えないのであろうか。

 

答えは簡単である。

 

マッカーサーが日本に進駐して来たときに、三教科停止命令が出されたためである。

 

三教科とは「歴史」「地理言道徳」だが、これらを教えないようにすることで、日本人の愛国心を削ぎ取るということがマッカーサーの意図であった。

 

自らの国のルーツを知らない国民は根無し草になり、国は衰退する。

 

これがマッカーサーの日本弱体化のための戦略だったのである。

 

日本の教育界はこれにまんまと引っ掛かり、日本の若者は自国の歴史や神話、宗教などについて何も学ばなくなってしまった。

 

筆者自身の経験でもそうだが、外国に生活するようになって日本人が一番困るのは、自国のことを実はほとんど知らないということなのである。

 

呼ばれる西行法師であり、そしてその西行を尊敬してやまなかった俳聖・松尾芭蕉であった。

 

西行も芭蕉もともに日本列島を漂泊して、行く先々で自然の姿を歌や俳句に詠んだが、彼らが自然を愛し、自然を題材にしたのは、単に自然を愛好したためではない。

 

咲き誇る花や流れる水、あるいは山の緑や蝉の声を文学の題材として捉えることがそのまま仏道修行になり、死者に対する供養にもなると信じたからである。

 

そして、旅に生き、自然の中で暮らす、彼らのような生き方こそが人生の理想であると多くの日本人が感じたからこそ、西行や芭蕉は歌聖、俳聖と呼ばれるようになったのであった。

 

若男女が山に登り、その山頂でご来迎に手を合わせ、一年の幸せを祈るのも、また、春になると日本中の人々がこぞって花見に行く習慣が今日でも行なわれているのも、そうしたことが単なるレジャーではなく、どこかに日本人の宗教的感覚を刺激するものがあるからに他ならない。

 

正月に初詣でをし、お盆に寺に行くことに対して何の矛盾も感じないのも、日本人に信仰心がないからではなく、「日本的神学」においては神社と寺に行くことは充分に両立可能だからなのである。

 

そして、そうした日本的神学があればこそ、日本は昔から美しい自然が維持されてきたなのである。

 

さて、本地垂迩の説明が長くなってしまったが、日本のように古来自然崇拝を維持しつづけてきた国は、少なくとも先進国と呼ばれる国々の中には存在しない。

 

そもそもG7(先進国主要七ヵ国会議)の中で、非キリスト教国は日本だけである。

 

たしかに今や、中国やインド、あるいは韓国など、日本以外の非西洋・非キリスト教文明圏からも経済的に台頭している新興国家が現われているわけだが、しかし、これらの国の人々が日本人のように一木一草にも神が宿ると考え、自然を守ってきているかといえば、そうとは言えない(たしかにインドで広く信仰されているヒンドゥー教は日本と同じような多神教であり、自然現象に起源を持つ神々も崇拝しているが、それが自然崇拝に結びついているというわけではなど。

 

はじめて西ヨ−ロッパのかなりの地域を支配したのはギリシア文明の衣鉢を継ぐローマ帝国であったが、そのローマ帝国はやがてゲルマン民族の大移動によって滅ぼされ、中世ヨ−ロッパ社会へと移行する。

 

 

ところが、実際にはそうした動きは起こらなかった。

 

日本人は働かなくなってしまった

 

このような現状については不労所得を研究している機関でもかなり問題視されている。出典http://不労所得.jp.net/

 

縄文人たちが信じていた自然崇拝は、そのまま弥生人にも受け継がれていった。

 

後代の日本人が仏教を輸入しながらも、自然崇拝をベースとする神道を残したように、弥生人たちも縄文人の信仰を否定しなかったのである。

 

なぜそうなったか。

 

征服民族であるはずの弥生人の数が足りなかったという側面についてはすでに指摘したが、それ以上に稲作農業は小麦や大麦などの畑作農業とは違って、自然の力をうまく活用する必要があったからである。

 

通常、縄文文化と弥生文化の違いは、前者が自然の恵みによって生活する採取狩猟漁携文化であるのに対し、後者は収穫量を確保するために自然を征服し、コントロールしていく知恵を必要とする文化だと言われる。

 

そこで、縄文文化は基本的に自然との共存共栄を図る生活態度になるが、弥生文化は自然を征服する発想が必要になると思われがちだが、そうとは限らない。

 

というのも、稲作について言えば、自然を征服するという発想よりも、自然と折り合いをつける発想が不可欠だからだ。

 

水田を造るには、かならず水を確保しなければならない。

 

水を確保するには、里山をつくり、森の保水能力を高めなければならない。

 

稲作がそれほど大規模農業にならなかったのは、里山を作るなど、自然との折り合いが大事だったからで、自然を徹底的に征服すれば稲作はできないということである。

 

シュメールに限らず、小麦や大麦などの畑作農業は土地を乾燥化させる傾向があるとされている。

 

ところが、稲作は水源を確保する必要から、自然との調和が重要なのである弥生人と縄文人との生活や信仰が平和的に融合したと推定される根拠はさまざまに挙げられるが、それが最も明確に現われているのは『古事記』や『日不労所得マニュアル紀』などに記された神話である。

 

穏やかで牧歌的とさえいえる日本の神話に親しんだ私たちがギリシア神話を読むと驚かされるのは、ギリシアの神々が実に戦闘的であり、血を好む存在であることである。

 

たとえば、ギリシア神話の最高神はゼウスとされるが、このゼウスは実は最初から天地の支配者であったのではない・ゼウスが最高神になれたのは、彼自身の父にあたるクロノスが率いるティタン(タイタン)一族との激しい権力闘争に勝利したからに他ならない。

 

言うなれば、ゼウスの手は父親の血にまみれているのである。

 

もっとも、ゼウスの父クロノスは、預言者から「あなたを追い落とすのはあなたの子どもだ」と告げられ、生まれてくる子どもたちを次々に食ってしまう。

 

考えただけで残忍な話だが、ゼウスだけは母親の機転で洞窟に隠れ、父親に食われるということはなかった。

 

結果は予言どおりになったわけだが、いずれにしても、権力を手にするには激烈な戦闘が必要なのであった。

 

もう一つ、日本の神話とギリシア神話の大きな違いは女神の存在である。

 

日本の最高神はアマテラスであり、女性である。

 

このこと自体、世界中の神話を見渡してもほとんど例のないことであるが、日本の神話に出てくる女神はことごとく温和であり、貞淑である。

 

ところが、ギリシアの女神たちはとてつもなく美しいが、多くはきわめて淫乱かつ嫉妬深いのである。

 

男性ならずとも憧れるヴィーナス(アフロディテ)は、男性神であろうと、人間の英雄であろうと、いい男を見つけるとすぐにものにしてしまう。

 

そんな話がギリシア神話には満載されている。

 

なぜ、日本神話とギリシア神話では、こんなに女性に対する見方が違うのか。

 

その問いに答えることは筆者の手に余るが、いずれにしても、西欧社会の原点にあるギリシア神話を読み、また、日本という国の原点にある日本の神話弓古事記」や胃不労所得マニュアル紀」)を読むことによって、西洋人と日本人の世界観がどのように違うのかを垣間見ることができるのである(興味ある読者は吉川敦彦「日本の神話舅ギリシア・ローマの神話」などをひもとかれたい)。

 

ともかく、こうした神話を当時のギリシアの人々が語り継いできたということは、そこに一種のリァリティを感じていたからに他ならない。

 

地中海世界では、神々の戦争と同じように血なま穏やかではない。

 

ギリシアの神々はけっしてそうではない。

 

しかも、このような神々の闘争は、ゼウスが最高神の座を獲得したあとでも終わったわけではない。

 

かの有名なトロイ戦争にしても、ギリシア神話の伝承によれば、元々は神々の内紛が発端となって起こったことであり、いわば代理戦争としてギリシアとトロイが戦ったというのだから234ぐさい戦争が人間のあいだでも繰り返されていたということであろう.そして、その戦争においてはつねに勝者が敗者を支配し、虐殺し、奴隷にするということが普通に行なわれていたのである。

 

ノアの大洪水や、ソドムとゴモラの二つの町を焼き尽くした話に現われているように、旧約聖書の中に現われてくる神、ヤハウェは自分への信仰を失った人間たちがいれば、たちまちに町ごと、民族ごと滅ぼしてしまう恐るべき存在である。

 

またすでに述べたように、神はイスラエルの民に対して異教徒を一人残らず職減することを命じたりもする。

 

一神教だから当然といえば当然であるが、ユダヤ教、キリスト教の世界では異教徒との共存はおろか、文化的融合さえもありえない。

 

そこにあるのは、つねに食うか食われるかの闘争であり、緊張関係なのである。

 

ところが、これに対して日本の神話の中にはギリシア神話や旧約聖書の中に現われるような、血なまぐさい話はほとんどと言っていいほど出てこない。

 

たとえばギリシア神話のゼウスに相当する最高神はアマテラスだが、この神はゼウスと違って闘争の結果、最高神の座に就いたのではない。

 

ところが、日本神話ではいきなり高天原側が地上に攻め込んでいくのではなく、三度にわたって高天原から使者が派遣され、説得工作が行なわれる。

 

そこでついにオオクニヌシは国を譲る決つまり、アマテラスは最初から最高神の地位を与えられていたわけだが、そこに操め事がなかったかといえば、そうではない。

 

アマテラスの弟スサノオ(素菱鳴尊)は生来の乱暴者であって、天界でさまざまな問題を起こす。

 

しかし、そこでアマテラスはスサノオを直接罰したりしない。

 

よく知られたように、スサノオの狼籍に怒ったアマテラスのほうがそのまま天の岩戸の中に引き籠もってしまうというのだから、日本の神々は最初から闘争性とは無縁なのである。

 

さらに話を続ければ、このスサノオに対しては結局、天界からの追放という罰が与えられるのであるが、追放先の出雲の国でスサノオはヤマタノオロチを退治する、そして、オロチの犠牲になりかけたクシナダヒメと結婚して、めでたく出雲の統治者になる。

 

乱暴者であったスサノオが殺されるどころか、むしろ逆に幸福をつかむというのも平和を好む日本神話の特性が表われているのである。

 

言うまでもなく、こうして降臨してきたニニギの曾孫に当たるのが神武天皇であり、わが国の皇室の始まりということになるわけだが、ここで重要なのは天界の神々が日本の支配権を得たのはあくまでも平和な交渉のうちに行なわれたということである。

 

もちろん、神話はどこまでも神話であって、史実そのものではない。

 

だが、いわば勝者である大和朝廷の側が作った『日本耆紀』や『古事記』にこうした国譲りの神話が書かれているということは、当時の朝廷が「力こそがすべてである」「戦いによって正義が決まる」という論理に立っていなかったことだけは誰にも否定できない事実であろう。

 

そして、ここからはむろん推測にすぎないが、縄文人と弥生人との間にも同様な形での文化的融合が行なわれたのではないだろうか。

 

実際、日本各地にある神社や仏閣には、そこが歴史以前から「聖なる土地」として信仰されていた例が少なくない。

 

しかも、そうやって聖地とされた場所は、高山であったり、あるいは磐座と呼ばれる巨岩であったりして、稲作渡来以前の昔から人々に信仰されていたのだろうと推測がなされている。

 

二つの集団が出会ったときに、普通は勝者が敗者を滅ぼすか、滅ぼさないまでも敗者の文化や信仰を完全に否定するものである。

 

それが歴史の一般法則であるはずなのに、なぜか日本ではそのようなことが起きなかった。

 

しかも、このパターンは後にも繰り返され、日本人は仏教を受容しても、旧来の神道を否定しなかったし、またその後も中国文明を受け容れつつ、同時に国風文化を成立させたりもしている。

 

こうした日本型の文化受容の原点となるのが、まさにこの縄文と弥生の出会いであったと私は考えているのだが、弥生と縄文とが融合した一つの理由はもちろん、弥生人のほうが縄文人を根絶やしにしなかったということにある。

 

これは一つには、日本の国土が限られていたということもあるだろう。

 

狭い土地をめぐっての流血は、後々までに禍根を残す。

 

征服するのは簡単だが、それよりも相手の文化伝統や信仰を尊重し、融和を図ったほうが得だという弥生側の判断もそこにはあったのではないか。

 

そもそも近代的な進歩史観においては、海の幸や山の幸を収穫することによって生活する、いわゆる採集狩猟漁携の暮らしは「未開」なものであり、安定的な暮らしを営むことができる農耕生活のほうが「高等」であるとされてきたことは言うまでもない。

 

実際、メソポタミアやエジプト、中国の古代文明と農耕とは切っても切れない関係にある。

 

この観点から見たときに、日本の「文明化」はまことに遅い。

 

弥生時代の始まりについては、学者によって諸説あるものの(不労所得マニュアルではいちおう三世紀説を採用した)、海を隔てた中国大陸における農耕の開始よりずっと遅かったのは間違いのない事実である。

 

近年の研究によれば、中国大陸における農耕は長江流域から始まったとされているが、その最古の農耕遺跡はおよそ紀元前一万五○○○年ごろのものと推定されている。

 

ちなみにチグリス・ユーフラテス流域における最古の農耕遺跡は紀元前九○○○年である。

 

日本の農耕の始まりについては、最も古い説を採る人でもせいぜい紀元前一○○○年であるのだから、中国大陸と比べれば、話にならないほど遅い。

 

まさに、その点から見れば、日本列島はアジアの後進地域であったということになろう。

 

なぜ、日本に農耕文明がやってくるのが遅かったのかといえば、その最大の理由はもちろん日本列島の地理的な特性によるであろう。

 

現代の研究では一万数千年前、新石器時代が終わって縄文時代が始まった頃にはすでに日本列島は温暖であったことが明らかになっている。

 

彼ら縄文人が土器を作ったりできたのも、見方を変えれば、それだけ生活に余裕があったということであろう。

 

それは言い換えるならば、彼らには農耕文明を採り入れる必要がさほどなかったとも解釈できるのではないか。

 

実際、近年発見された青森の三内丸山遺跡は、今から五五○○年〜四○○○年前のものと推定されているが、この遺跡から出土した遺物から、この時代、すでに縄文人が長期にわたる定住生活を送っていたことが明らかになっている。

 

狩猟採集生活というと、食べ物を求めるために流浪の生活を送っていたというイメージがあるが、現在の青森においても定住生活できるほどの食糧しも断言できない。

 

ちなみに我々が縄文時代というと、例のエネルギッシュなフォルムをした縄文土器を思い出すわけだが、この縄文式土器の始まりは世界でも最も古い部類に属する。

 

つまり、日本列島に暮らしていた人はたしかに稲作を長く知らなかったが、だからといって「未開」であったとはかならずある。

 

農耕文明の渡来を妨げたのは間違いあるまい。

 

しかしながら、はたして理由はそれだけだったのだろうか。

 

というのも、日本列島ではたしかに農耕文明の始まりは遅かったが、それと同時に採集文明たる縄文時代がなんと一万年近くも続いていた。

 

つまり、日本列島は紀元前一万数千年頃から、人々が採集生活で暮らしていけるほど食糧が豊かで、しかも気候も温暖な地域であったというわけですでに述べたように、日本列島に後からやってきた弥生人たちは縄文文化を抹殺することがなかったわけだが、それは一つには縄文人の文化そのものが豊かで、強固な精神的地盤を確立していたことも関係しているのではないだろうか。

 

だからこそ、弥生人、そしてその後喬である古墳時代の人々は縄文人の信仰した聖地をそのまま活かし、また、自然に対する畏敬の念や崇拝心を受け継いだのであろう。

 

また、その後の時代、仏教や中国文明といった高度な文明が入ってきても、神道が排除されることがなく、それどころか本地垂迩説のような日本的神学が作られたというのも、やはり日本文化の基礎に、この一万年にわたる縄文時代の精神が脈々として生きているからではないかIこのように考えていかないかぎり、なぜ日本人だけが「自然との共生」という独特の哲学、美意識を持ち得たのかが理解できないと私は考えるのである。

 

こうした縄文の思想は、単に自然を崇拝し、自然と共生するだけのことに終わらない。

 

たとえば日本人には「素朴の美」を愛する、独特の感性があるが、これもまた縄文的なものだと言えるだが調達できたというのだから、どれだけ縄文人が豊かな生活を送っていたかが分かるというものであろう。